フルガムの本と《欲望》が何となく繋がって、相変わらずまとまらない僕の感想。

 先日ここに載せたフルガムのエッセイに《心の中の家族》というものがある。「わたしたちは知っている事だけを自分の好みや都合に合わせて継ぎ接ぎして、心の中の家族というカウチの上掛けに仕立てているのだ。」、「それどころか、わたしたちは自分自身をも想像で作り上げている。」という文。「世界は舞台だ、人間は役者だ。」と言ったシェイクスピアを思い出す。メチャクチャ納得。感覚的に。特に2文目。うんうん、作り上げてる。エッセイの中で引用されているピカソの言葉は「想像に描く事のできることはすべて現実である」。
 本質、真実とは何か。これらは自分の中で作り上げられるもの。自分の想像やイメージがすなわち本質、真実になるのかな。見るにしても、聞くにしても、何をするにしても「自分」というものを通さずにはいられない。自分にとっての本質、真実は自分の中で作られる。現実は複数の人に認知されないと現実となりえない。映画《欲望》では、写真家にとって殺人事件は真実だったけど、現実にはなりえなかった。ラストでパントマイムのテニスは写真家にとって最初はわけのわからないものであったけど、見ているとどんどん惹きこめれていき、ついには自分もそれに参加しそれは現実となる。現実は集合によって作りあげられる。本質・真実は個人によって作りあげられる。こんな風に思った。滅茶苦茶テキトー過ぎる。写真家がパントマイムに加わる(ボールを拾いにいき、投げ返した)ラストはとても印象的。カメラが引いていって写真家がいきなり消える。そしてハービーの音楽。カッコ良い終わり方。
 友達は自分の中で作り上げられてる。それぞれの友達像を自分の経験(その人の話し方とか振る舞いとか)から作り出していく。要は友達も、というか人間関係はイメージか。何だか悲しい表現。もっと別のうまい言い方がある気がするけど。でもこのイメージってとても大事だと思う。これによく助けられる。これに頼ってる部分がかなりあるような気がする。
 結局、現実とか本質とか真実とか想像とかイメージとかって何ですか?(笑)