アナーキズムとアートの現在

 講演会。「アナーキズム」って言葉に惹かれて。ただそれだけ。何にも知識なし。話してくれる人の中に一人として、知ってる人はいない。
 こんな状況で話を聞いたわけですが、ノート取っちゃったりして結構楽しめた。わからないところも多くあったけど、今までの自分の経験や知識と繋がったところもあったりして(1999年のシアトルの反乱とか)。とにかく覗いてみる事は大事だなと思った。
 デヴィッド・グレーバーさんという人を中心に6人の方の話を聞いた。個人的には小田マサノリさんの話が面白かったな。レジュメにATCQのジャケット(“The Low End Theory ”)使ったりしていて、何となく親近感を持てたってのもあると思うんだけど。アナーキズム文化人類学の交差点なんかについて話してくれたんだけど、例えば文化人学者って何だ?って問いに答えるときに文化人類学者になり損ねた人達だったり、なりすました人達を見ていくっていう切り口が面白かったな。こういう物事を多面的に見ることができる人に憧れるな。“Another world is possible”はアディダスのCMと何となく似ているけど、人類学が示す「いくらでもある別世界」を知る事は絶対的に必要だと思うし、市場主義社会(資本主義)からの脱却とまでは行かなくてもできるだけ外側へ向かおうという姿勢を持っている人は増えている気がする。ここら辺は去年やったことと、微妙にかすってる気がした。小田さんの話はもっと聞きたかったな〜。でも残りはあと1分なんだよ。いつでも残りあと1分なんだな。
 高祖岩三郎さんの話も面白かった。アートと都市空間。「どうして人はアートを問題とするとき、作品のみを問題にするのか?」という話にハッとさせられた。1980年代のニューヨーク(特にイースト・ヴィレッジやロウアー・イースト)を例に出して話は進められていったが、労働形態や人種コミュニティの変化、コミュニティの交流、居住形態などがアートと密接な関係にあることを具体的に説明してくれた。1980年代のNYにはアーティストの意識を持ったフリーター(主にウェイター)街だったとか、スクワッターの存在や、廃屋をスタジオに変えて新しいコミュニティスペースを作っていったこと、それが後に不動産物件の対象となっていった事、アーティストがマイノリティのコミュニティに進出していき新しいライフスタイルを生み出していったことなどなど・・・。アートというものが中心にあり、それによって変容していく街。この意味でアーティストはアクティビスト(?)と似た存在だったといえるのかな?「アートは都市空間に存在する」ということ。ハーレムのグラフィティなどはまさにこれだ。こういうことを意識していれば当たり前のことなのかもしれないが、そういう意識を自分はあまり持っていなかったのでなんだか新鮮だった。聞けて良かった。
 デヴィッド・グレーバーさんはニコニコしてる人だった。「警察は一番憎しみを持つのはあの巨大なパペットなんだよ」って言ってるときとか。暴力とルールの話は面白かった。暴力(戦争)はルールに基づいて(どのくらいの力で、どのレベルで、捕虜はどのように・・・)行われなければいけない。それはお互いが平等の立場であること、敵に敬意をはらうこと。うろ覚えだけど、戦争好きの未開社会の部族もこのようなものだったと勉強した気がする。しかし今の活動家に対する警察(国家)の対応であったり、対テロ戦争だったりはルールに基づいてない。国家に対等な相手はない。ルールを守らなくて良いという理屈。勝つ見込みの無い、終わりの無い戦いが続けられる。巨大パペットが嫌がられるのは、この戦闘規約を変えてしまうから。国家はどうして真に政治的な力は戦いの規則(ルール)を決める事だ。グレーバーさんの話にはとても説得力があった。
 最後の討論で「最も効果的な暴力は目に見えないことがある。そもそも暴力と認識されない事がある」という趣旨の話があった。社会生活に埋め込まれている暴力にどう抵抗するか、この抵抗が国家への抵抗になるかもしれないという話の展開だったと思う。コレは興味深い。「最も大切な事は目に見えないんだよ」ってキツネは言ったけど、同時に「最も醜いことも目に見えない」ってことか・・・。う〜ん、深い。
 国家というものを自分は日々意識しているわけではない。国家というものから離れてるから意識していないんじゃなくて、入り込みすぎて(寄りかかりすぎて)意識してない気がする。今日のような話を聞いて、自分の立ち位置ようなものを考えてみるのは有意義な事だと思う。自分と様々なものの位置関係みたいなものを知るのは、同時に多角的な視点を持つ事になると思うし。ということで、参加して本当に良かった。何か新しい世界を覗いた気がして面白かった。